開祖様は新潟県中頸城郡新井町(現在の新井市白山町)で父・寺沢捨吉、母・トクの末の男児として明治30年9月26日に生誕された。幼名は作次郎。
<神童>
 北国の貧しい子沢山の家にお生まれになられた開祖様は生活苦から3歳の時、母の強い反対も叶わず、同じ新井町で商売を営む母の弟、中島栄太郎夫婦の養子となられた。暫は幸福な日々が続いていたが、夫婦に子供が生まれると態度は一変した。邪魔者扱いされ、いじめ抜かれていた開祖様の心の支えとなったのは母の存在であったが、9歳の時に不遇の開祖様の行く末を心配しながら母・トクは三十余歳の若さでこの世を去る。以来、時間を作っては母の墓に祈りを捧げる日々が増えた。
このような逆境が開祖様を幼くして信仰に目覚めさせた。その頃から開祖様の言行は不思議・奇跡を現し、少年とは思えぬ威厳があり、人々から神童!神童!と呼ばれるようになっていった。


<東京へ>
 その後、養家を離縁となり、開祖様16歳の時”成功ならずんば再びこの故郷の地を踏まず”の強い覚悟を以て故郷の北国を後に東京へ向かった。裸一貫、16歳の青年が大東京で成功を成す事は尋常ではない時代であったが、開祖様はたちまち自分の店を出すまでに成功を収めた。この大成功に有頂天になり満足していたならば大宗教家・堀泰一朗も、古乃美信仰も存在しなかったであろう。
開祖様は夜学で知り合った友人たちと国内を離れ外地で一旗あげよう!先ず朝鮮に渡りシンガポールにと、若い炎を燃やし合っていたのである。折角苦労して成功した店も捨てての大冒険である。それに踏み切るにはかなりの決断力を要する事で、未知の異国となると、友人達も心は不安に揺れていた事だろう。 東京駅から出発する日、約束した友人達の姿はなく、開祖様は単身下関港から関釜連絡船に乗船し故国を離れ、釜山の地に第一歩を印したのは大正6年11月、開祖様20歳の秋の暮れんとする時であった。


<釜山へ>

 釜山に着いて宿泊した旅館の主人にシンガポール行きは強く止められ、身元保証人になって仕事の世話迄もしていただいた。見も知らぬ土地で暖かい人の情に触れて勇気百倍生業に励んだ。大正9年2月、開祖様は広島県の堀コチヨ嬢と結婚、『開祖開教』の自伝の中で「妻は18歳で嫁いで来ましたが、姉と二人姉妹で、その姉が27歳の独身のうちに世を去りました為、堀家入籍して、姓だけは絶やさぬ様相続することになりました』とあるように開祖様の姓がこの時寺沢から堀に変わった。

<信仰への道>

 大実業家の店に勤めて3、4年の後、当時の石炭部門を受け継ぎ「巴商会」という社名にて独自事業を始め実業家としてデビューを飾ったが、本業の傍ら現れる霊感に実業家としての開祖様と、不思議な神の力を現す開祖様が釜山の人々の話題となっていった。
霊感は日増しに高まり開祖様の名は釜山はもとより本国内地の宗教界の主だった人々にも知れ渡り、実業家より身を引いて神の道一筋に生きようと心に決めつつある時、偉大な霊能者・古山真正先生との出会いがあり、昭和十年十月、開祖様は大神様より次の如く重大なる御神命を受けられた。



<御神命>

 ”創(はつ)の代に還せよとの大御心を体して起てよ。改めて聞かさん。汝、神の名に於いて為さんとして成らざるもの無し。汝の与えるものは神も与え、汝の取らんとするものは神も又取らん。もし汝の力を問う者あらば答えよ。上に天なし、地に底なし、広さを問わば果てしなし。汝の言行は見えざる神の証なり。汝の魂は護国の神たれ。”この御神命を受け、昭和10年10月23日釜山において「このみ教」を開教したものである。開祖様38歳の時であった。

<修行と悟り>
 開祖様は「我が使命は大なり。されば今より改めて修行を行いて将来に備えん」と思われ深山にこもられて、難行苦行に打ち込まれた。そこに大神より”汝行者にあらず”という御神示があり、深山の行を終えられた。
この時開祖様は悟られた。
「我れ行者にあらず、予言者にあらず、拝み屋にあらず、故に我が身を通し、神の働きを現わし神の御心を教えとして現実に立って現実に処す道こそ、我が救い、我が教え、我が導き、我が光なり。」


<御聖地>
 終戦により、昭和20年9月19日、開祖様も28年間住み慣れた釜山を引き上げ大神を捧持し大勢の家族と共に九州の唐津に上陸。その地で”中国は笠の地に斎き祀れ”と云う御神示によって笠岡を大神様の鎮まれる永遠の御聖地と定められたのである。